twitter log その2 「絶対」性にまつわる論考

法律という学問は、時と場合によって立場を変える「絶対」性の薄い学問です。
法規範のもと、すべては相対化される。それでも残る「絶対」とは何か。
そんな一法学徒が考えた、「絶対」性への論考です。



(2010年7月ごろのツイートより)
 法律を扱っていて常々思うのは、この世に「絶対」という価値は存在しないという事だ。
 訴訟の構造などは良い例で、争っている双方に言い分がある。まぁ、とは言え「絶対」が無いのだから何しても良いとすると、これも考えもので、厭世的なニヒリズムや他者攻撃的な自然状態を呼び起こしてしまう。
 そこで、それなりには賢い人間は、遠くは王を、古くは宗教を、そして近くは法を定めて、仮想的に「絶対」の役割を肩代わりすることにした。
 
 特にこの点、現代の法が優れているのは、このバーチャルな「絶対」を固定的なものとせず、民主的な手続きによって自由に「絶対」の内容を変えられる、という可塑性を持たせた点にある。
 ただし自由に動かせる分、今回の「絶対」は以前に比べて、正当性の契機が薄い。
 現に政界を見られよ。私たちは王を見るように、神を見るように、彼等を見るのではない。
 そこに居るのは、ただの人間だ。ただの人間なれば、私たちは自由に批判し、批評する事ができる。
 それが故に政界は「絶対」の決定権をもつはずなのに、いまいち正当には見えない。
 
 今や、「絶対」は神秘と権威のヴェールを剥がれ、白日のもとに晒されている。
 M・ウェーバーの言うところの「魔術からの解放」もこれに近い。
 ところで、「絶対」がその衣を完全にとられると、そこにあるのは、単なる一つの価値観であることが分かり、「絶対」は無効化してしまう。それでは、正当性の契機が失われ社会は無秩序になってしまう。
 
 それに対応して、近代政治思想家がつくりあげた壮大な物語が「社会契約論」だ。
 社会契約のもとで、人々は自らが批判するところの、この「絶対」が実は自らの同意によって形作られたものであり、自らの(国民の)権威に基づいて、形成されたことを知る。
 これにより、当世の「絶対」は、以前の一つの金塊(なにか貴いもの)がピラミッドの頂点にあるような状態とは、全く違った形で把握される。
 あえて言うなら、それはウロボロスの蛇に近い。
 批判による消滅・無効化、そして新たなる精製・立法化を飲み込んだ、破壊も創造も内包する新たな「絶対」だ。
 
 丸山真男が以前、民主主義をして「永久革命」と喝破したが、これは、以上の様な文脈から理解されよう。
 げに民主制とは強力なシステムである。ところで、この「ウロボロスの蛇」、社会契約論に依拠しているが、これが崩れたらおしまいな気もする。大丈夫なのだろうか。
 
 この点は、あまり、心配ないとおもわれる。
 現に私たちは、義務教育レベルでこの理論を学ぶのだし、社会契約としてつくられた国家を動かす、選挙権を行使している限り、理論を自家薬籠中にしているものと言える。学説上も政治哲学上も、社会契約(憲法)をもって、国家を維持する以上の方策をまだ発見できていない。
 
 もし、今回の「絶対」がその機能を失うとしたら、昔に退化するか、あるいは全く新たな政治形態が登場した時だろう。だがそのような形態は未だ存しない。
 すると、法治国家はまだ当分続きそうである。
 
 此の様な状態にあって、法律家のなすべき役割は、何であろうか。
 思うに、その役割とは、批判を吸い上げ、不満をガス抜きする社会のメンテナンス係である。
 つねに国民の動きが、主権という名の「絶対」に関連していることを示して、仮初にせよ正義を実現して、ウロボロスの蛇がしっかりと自らの尾を捉えることを補助する支援者。そういう役割であろうか。
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by katukiemusubu | 2011-05-29 09:35 | twitter log | Comments(0)
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