劇団火遊び「天帝のはしたなき果実」を観る、感想

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平成26年6月26日(木)、劇団〈火遊び〉pray.03「天帝のはしたなき果実」の初演を観て参りました。
写真は「天帝のはしたなき果実」の戯曲。会場販売で1000円でした。

以降は、ネタバレが必至なので、先に要点を書いておきますと、
野心的な舞台。原作既読者は間違いなく楽しめ、原作未読者は構成に戸惑う。
しかし、よく観て吟味すれば、未読・既読を問うこと無く、一つの演劇としての巧みさに舌を巻く。
ヒトとヒトが解り合うための、「いま、ここ」だけの物語。





さて、所感です。

そもそも私が本作の原作「天帝のはしたなき果実」(古野まほろ著)を知ったのは、
古野氏と、口に出すのもいまわしいかの出版社、との間に生じた騒動がきっかけでした。
騒動を眺めるにつれ「どれ、剽窃があるのか否か、ひとつ確かめて見ようではないか」という気分になり、双方の小説を購入したのです。
私が購入した「天帝のはしたなき果実」は講談社ノベルズのもの。
つまり、今現在流通している幻冬舎文庫版、いわゆる「新約」ではなく、「旧約」の方でした。

はじめ剽窃の審査員気取りで読み始めた原作は、それはもう、かつて見たことが無いほどに個性的な文体で、それでいながら文字運びに破綻はなく、十数ページを読んだところで、すっかり虜になりました。
而来、剽窃騒動など、そっちのけで原作を読み切り、天帝シリーズを読み進み、探偵小説シリーズを収集し、古野まほろの構築する作品世界をたびたび訪れる様になったのです。

この原作「天帝のはしたなき果実」は講談社ノベルス版で817ページ、幻冬舎文庫版では755ページにも及ぶ長大な作品です。
登場人物も十を優に越え、舞台も多岐に渡ります。
私は幼いころ、子役として、商業演劇で舞台に上がっていた事がありました。
長じた今となっては、もう舞台に立つことはありませんが、しかし舞台を観に行く事は好きで、ときおりフラッと都内の演劇場を訪れます。
その経験から思いますに、長大な原作を舞台化する際には、個々の人物造形が甘くなってしまうという問題が起こりがちなものです。

何故なら、読むだけでも7~8時間、下手をすれば10時間を越える様な原作を、おおむね2時間程度の舞台に圧縮するというのです。
圧縮をかけてしまえば、人物の行動は判りづらくなり、人物の心理は不明瞭になるのが必然というもの。
それを避けるため、長大な戯曲を戯曲化する際には「原作の仕立直し」が行われる事が多々あります。
すなわち、登場人物を削減し、一部の場面をトリミングし、話の流れを差し替える。
こうする事で原作を舞台の時間制限に収め、また一つの演劇として無理の無いものに仕立て直すのです。
しかし、服のリフォームではないですが、お話の仕立直しにも巧拙があるというもの。
仕立直しの最中に、原作の根幹たるメッセージまで削いでしまい、芯なき戯曲となるものもあれば、逆に原作の根幹たるメッセージを浮かび上がらせ、骨太の戯曲たりえるものもあります。
あえて言えば、クズの様な仕立直し戯曲もあれば、宝物の如き仕立直し戯曲もあるという訳です。

それでは本作「天帝のはしたなき果実」はどうか。
間違いなく後者に当たります。
松澤くれは氏が脚本・演出を務める舞台を観るのは今作が初めてですが、いやはやどうして大したものです。

ここからは作品内容に言及しますが、本作では、原作にあった「学校の不思議探求」の要素がばっさりと削ぎ落とされ、話の本筋であるところの、一連の殺人事件とその解決にフォーカスした脚本となっています。
殺人事件についても一部のものがカットされていました。
しかし本当に重要なのは、事件の解決それだけではなく、壁にぶつかった時に答えを求め、あがき、藻掻く、苦闘する人間の姿であり、その性質の活写にあります。
本作は、原作が論理パズルの深奥から醸し出していた人間(ヒト)への飽くなき愛着を、戯曲化というノミを用いて削り出し、表現することに成功した作品と言うことが出来ましょう。

その表現の方法が、また独特でした。
劇の最後になって判明するのですが、本作は二重の入れ子構造になっています。
すなわち、①現在進行形で事件に遭遇し苦闘する主人公達、②事件が終わったあとで過去完了の形で①の事件を反芻する主人公と同室者、そして③、①も②も含めて、それまでに起きた様々な事柄を「ロールプレイ」(再現)する主人公と演者たち。
劇も終盤になって、本作は①や②ではなく、③であったことが明らかになります。
つまり、今まで観てきたことは全て「ロールプレイ」であり、原作における事件を再現したものに過ぎない事が明かされるのです。
言い換えれば、本作に登場する原作の当事者というのは主人公一人であって、他の登場人物は原作の当事者ではなく、当事者を演じている赤の他人であったという事が判明するのです。

通常の演劇において、観客とは主人公に寄り添うものです。
すなわち客席と舞台という隔たりはあれど、上演の間、観客は主人公と同じ空間にあって同じ感覚を共有し、同じ経験を重ねています。
だからこそ観客は主人公に感情移入し、舞台上の推移に手に汗握るのです。
しかし、舞台上の全てが「ロールプレイ」に過ぎないとしたらどうでしょう。
目の前で展開されてきた事件は、実は本当の事件ではなく、あくまで再現劇に過ぎないとしたら。
①を見ていたはずが、実は②であり、②をみていたはずが実は③であった。
こうして無限の遠心構造によって、観客と主人公の距離は引き離されていく。

二重の入れ子構造によって、舞台上でも観客席上でも、本当に事件を経験したのは主人公だけとなり、主人公とその他は断絶してしまうのです。
もはや当事者は主人公のみなのです。
圧倒的な孤独。
そして、主人公と断絶してしまった観客にそれを救うすべはありません。
絶望的な無力感。
これを感じたままに舞台が閉じるかと思ったその時、今一度の転換が訪れます。
それは、ヒトとヒトがつながる奇跡の瞬間。
多くは語りません。ぜひ、この場面こそ劇場で観ていただきたく思います。
流石はミネバ様、とだけ申しておきましょうか。

ところで、こうした野心的な脚本を支える配役、美術類も魅力的なものでした。

まずは美術類。
舞台は大分して三層構造になっており、舞台の敷板、そこから左右それぞれの階段がつながる壇上の舞台、向かって右上にあるベランダが存在します。
これらそれぞれの舞台で劇が進行するため、同時間の別場所、同場所における別時間の進行が一見して分かるように表現されており、大変興味深く思いました。
この三層構造も、長大な原作を仕立て直すのに効果的な役割を果たしています。
それぞれの層を隔てるカーテンを変更していくことで、子爵家の居館にも学校の音楽準備室にもなる、この作りは面白い。
観客席側には瀟洒なシャンデリアが左右に一つずつ吊るされていますが、吉祥寺シアターの広い天井とほぼ正方形の躯体が奏効し、特に圧迫感もありません。

そして舞台中央に浮かんだ白の舞台。
これこそが本作美術の肝で、時に病室となり、時に教室となり、時に寝室となるという八面六臂の大活躍。
主人公の心情描写を行うに際して、大いに奏功しており、快心の出来栄えでした。

小道具・衣装も必要十分な具合です。

次に配役。
主人公:古野まほろ役の松澤くれは氏は脚本・演出も手がけた人物で、見事なエロコアラ振り。終演後にお見かけした際には、すらっとした二枚目でしたが、舞台の上では、しかと役に一体化していました。
役に入れ込んでいる、といえば穴井戸栄子役の金子優子氏。穴井戸栄子といえば、古野氏の作品世界のなかでも一・二を争う個性派ですが、見事な演じ振りで、まさしく理想の穴井戸栄子でした。父を殺したかもしれない某人物との会話では揺れる心が伝わってくる迫真の演技。「シャーロキエンヌ」買わないと。
女性陣といえば、修野まり役の黒沢佳奈氏。修野嬢の威厳を十分に表現しており、また全てが「ロールプレイ」と明らかになった後の演技も良いものでした。特に気に行ったのが、靴を叩くところ。実に蓮っぱで、「ロールプレイ」であるという明確な表現になっていました。
瀬尾兵太役を演じる三原一太氏も印象的でした。胡散臭さと情熱と、責任感と屈折がないまぜになった教師瀬尾を情感豊かに表現されており、いい塩梅でした。
その他にも、美しさと毅然さにあふれる峰葉実香役の荒川佳氏、後半の迫力ある豹変が光る(いま少し大見得をきってくれても良いかもしれない)上巣由香里役の佑木つぐみ氏、客席への目配りを怠らない切間征役の小林至氏など、印象に残る配役が多くありました。
逆に悪い配役というものは皆無と言って良く、あまりの理想の「天帝」世界の顕現ぶりの思わず笑みがこぼれたほどです。


あとは少し気にかかった事について。

音響ですが、強弱の差がはっきりと出過ぎており、もう少しグラデーションを描くように変化していった方が良いように思われました。特に舞台が変わるときなど。

四幕ノンストップ、約2時間20分で進行という舞台でしたが、流石に長時間なもので休憩が一回あった方が良いやも知れません。しかし、ぶっ通しだからこそ得られる緊張感・一体感もあるもので、悩ましいところです。

古野まほろ氏もご臨席であった様ですが、流石に覆面作家、劇場挨拶などはありませんでした。サインについても係員の方が、一旦、楽屋まで持っていて書いていただくという方式。ご尊顔を拝せなかったのは残念ですが、まぁ「ぶるじょわ鰻」名でサインをいただいたので良しとすべきでしょう。


ともあれ、非常に見所が多く、また野心的な舞台でした。
「ロールプレイ」で引き裂かれたヒトとヒトが、いま、この場所においてお互いを認め合う。
その奇跡とも言える瞬間を観るために、劇場へ足を運ぶ価値があります。

複数回みても新たな発見がありそうです。
今一度ということで、千秋楽の公演へ行ってみようと考えております。

〈続・感想 第四回公演・古野まほろ舞台挨拶など〉

28日の夜公演で「18歳女子高生・古野まほろ」氏の舞台挨拶があるという事を聞き、千秋楽の予定を変更して行って参りました。
公演も既に四回目。
初回に比べて、角が取れた演技で、演者各氏がリラックスして配役に入り込んでいる印象を受けました。
音響もスムースになり、舞台への没入を妨げません。
いよいよもって作品世界の顕現の度合いは高まり、大変楽しい時間が過ごせました。
当日券については予約客の入場後、開演5分前からの入場となる様です。

さて、舞台挨拶。

確かに「18歳女子高生・古野まほろ」が、そこにいました。
松澤くれは氏の招待に応じて現れた氏は、肩までかかった黒髪も可憐な女子高生。
中肉中背、楚々とした身のこなしで舞台の中央に歩み寄るその人の姿は、漆黒に白のラインも鮮やかなセーラー服。
シンプルに後ろで結んだ長髪をときおり揺らしつつ、用意した原稿を読むのでした。

もちろん、この人物「18歳女子高生・古野まほろ」氏は、作家の古野まほろ氏本人ではありません。
氏は自身の経歴に、東京大学法科卒であることを明記しており、性別はともかく、18歳高校生ではないのです。
文節にご注意。登場したのは「古野まほろ」氏ではなく、「18歳女子高生・古野まほろ」氏なのです。
覆面作家であることを逆手にとった、氏一流のギャグと申せましょうか。

流石というべきか、観客諸氏も心得たもので、朗らかな笑いを交えつつ「18歳女子高生・古野まほろ」氏のお話を伺うのでした。
ただ、彼女の読んでいた原稿そのものは古野まほろ氏ご自身が書いたものでしょう。
要約となりますが、
「演劇も小説も、いま、このとき限りの、刹那のものです。舞台の緞帳がおり、本を閉じれば、再び長い現実が待っている。でも、だからこそ演劇や小説の力、つまりは芸術の力を信じたい。芸術がヒトを動かす可能性を信じたい。そのために自分達は活動を続けていく」という様なお話でした。

そうこうして、トークショーも終了。
帰り際、言葉を交わした人がサンライズの社員であったりと、原作と本作の波及力を思わせる二回目でした。

このトークショーにしても、先述した二重の入れ子構造にしても、本作「天帝のはしたなき果実」は「舞台の嘘」(おやくそく)を巧みに使いこなす舞台でした。
すなわち、俳優が◯◯役として舞台に立っている以上、その俳優は舞台にあるかぎり、◯◯として扱われるという「舞台の嘘」(おやくそく)。
これが本編では二重の入れ子構造によって、ひっくり返されました。
トークショーでは本人を称する別人が登場することで、おやくそくの提示が図られました。
これらは非常にトリッキーであるのですが、決して嫌味なものではありません。

つらつら考えますに、それらが嫌味ではなく、むしろ作品の魅力を高めるに至っている理由は、やはり「作品への愛」にあるのでしょう。
脚本家・俳優陣・各スタッフの原作への愛、本作への愛、或いはリスペクトといっても良い。
本作では、教師瀬尾が吹奏楽メンバーに「一音入魂」の心構えを説くくだりがあります。
音楽においては「一音入魂」、演劇においては「一声入魂」。
本作は、「一声入魂」と表現することが相応しい、一言一句までよくよく磨きあげられた舞台となっています。

そんな愛あふるる舞台も6月29日早朝現在、あと二回を残すのみです。




(ぶるじょわ鰻筆)
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by katukiemusubu | 2014-06-27 02:47 | 生活一般・酒類・ウイスキー | Comments(0)
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