八丈島旅行記5「再び太平洋を越えて!東海汽船 橘丸(復路・伊豆諸島歴史紀行)」

24時間半を過ごした八丈島に別れを告げ、東京へと戻ります。
再びきたる10時間の航海。
東海汽船 橘丸に乗船しながら考える、伊豆諸島の今と昔。


 →八丈島旅行記リンク 1「冬の太平洋を越えて!東海汽船 橘丸(往路)」
            2「ジャングルを越えてゆけ、火口内の地下深林(八丈富士登山・地下森林編)」
            3「八丈富士登山 中央火口丘の湖沼群(湿地帯)+樫立向里温泉ふれあいの湯」
            4「滞在記 ホテル リード・アズーロ/八丈島焼酎 飲み比べレビュー」
            5「再び太平洋を越えて!東海汽船 橘丸(復路・伊豆諸島歴史紀行)」(当記事)



ホテル「リード・アズーロ」のスタッフに送ってもらい、底土港・船客待合所に9時ごろ到着。
橘丸は既に入港しておりました。
写真真ん中の建物が待合所です。
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客船発券所へ向かい、前日に予約したチケットの発券手続きを致します。
当初、帰りは飛行機の予定でしたが、急遽キャンセル。
往路の船が想像以上に面白かったので、復路も船にすることにしたのです。
空港へ寄っていたのは、キャンセル手続のためでもありました(旅行記3)。
がむしゃらに急ぐ旅でもなし。
のんびり行くことにします。

発券所窓口のスタッフいわく「船は定刻通りの出港予定です」とのこと。
すると、午前9時40分の出航時間までしばらく時間があります。
そこで周りを散策することにしました。

船客待合所の展望デッキに登ってみたり。
(八丈富士山腹の明るい場所、牧場がはっきり!)
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オフシーズンの底土海水浴場を歩いてみたり。
(とぼとぼ・・・)
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埠頭でテトラポッドの作成過程を眺めてみたりしておりました。
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テトラポット(消波ブロック)の製造過程、初めて見ましたが、型枠にコンクリートを流し込んで作るのですね。
しかも現地製作。コスト面からも合理的です。

そうこうしている内に乗船開始のアナウンス。
9時30分。
タラップを登って、再び船上の人となります。
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積み込み作業の都合などで、出港は少し遅れ、9時50分頃となりました。
隣に停泊している「あおがしま丸」を見つつ、時間を紛らわす。
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「あおがしま丸」はその名の通り、八丈島・青ヶ島間を結ぶ伊豆諸島開発の貨客船です。
65km離れた青ヶ島との間を2時間半で結んでいます。
こちらも新造船です。就航から、ちょうど1年。

これ以前、青ヶ島村へのアクセスを担っていたのは「還住丸」という船でした。
総トン数120トン。
あおがしま丸(500トン)の4分の1足らずのサイズです。
船舶のサイズもあり、かなり揺れることで知られていました。
青ヶ島の三宝港は港湾状況が厳しく、停泊中ですらメートル単位で揺れることがざら。
揺れるタラップを駆け上がり、駆け下ります。
乗った人に言わせると「乗降も命からがら」とのことでした。
「乗客をゴンドラに載せ、クレーンで釣り上げて乗降させる」という大東島ほどでは無いにせよ、凄まじい港湾状況です。
実にダイナミック。

そういえば大東島も青ヶ島も、八丈島との縁深い場所です。
八丈島民による開拓といえば、世界自然遺産・小笠原諸島もこれに当たります。

そんな事を考えているうちに出港。
この日の八丈島からの乗客は、私を入れて10人もおらず、静かな船出となりました。
外洋に出ると、橘丸は増速。
あっと言う間に航海速力20ノットに達します。
遠ざかっていく八丈島。
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写真、中央にある双耳峰は「神止山」。
八丈島火山群の活動で出来た火砕丘です。

「おもうわよう!」
八丈方言における別れの言葉です。
遠く離れても忘れませんよ、という意味。
出会いの言葉は「おじゃりやれ!」
ようこそいらっしゃいました、という意味です。
共に中世言語の語感をよく留めており、逝きし世の面影を思わせるものがあります。
徐々に薄れゆく島影を見つつ、何ともなしに声を上げておりました。

さて。
復路の橘丸は昼行便。
9時40分に八丈島を出て、12時30分に御蔵島、13時25分に三宅島へ寄港し、19時40分に東京・竹芝埠頭へ到着予定です。
海流の影響か、20~30分、夜行便(東京→八丈島)より所要時間が短い。
乗船日は天気も良く、視界も良好。
行きと違って、海も荒れておりません。
三宅島以降も伊豆諸島北部をかすめて行く航路の様ですから、デッキに陣取って、伊豆諸島周遊クルーズと洒落込みます。

冬の太平洋は荒れるもの。
この二週間後(平成27年2月11日)には三宅島沖で海上コンテナ落下(流出)事故が起こり、宅急便・クロネコメール便が水没しています。
強烈な横波にさらわれたとか。
しかし、穏やかな日もあるのですね。

なお、昼行便も部屋指定があります。
夜行便と同じく二等客室でお願いしておりました。
部屋へ行ってみると、夜行便で乗っていた客室の隣。
つまりは、往路でエンリコ氏が泊まっていた部屋です。
なんたる偶然。
客室に他の荷物はなく、またもや10人部屋を貸切と相成りました。

八丈島が水平線の彼方へと消えたころ。
御蔵島までの距離は75km。
まだまだ時間があります。
シャワーでも浴びることにしました。
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10分200円。備え付け洗剤あり。
街場のコインシャワーと同程度の価格で、船上シャワー。
更衣室が手前に有り、シャワールームは完全個室。
男女別室となっており、気疲れせず良いものです。

船は海流の調子が良いのか、はたまた遅れを取り戻すためか、22ノットで巡航中。
時速41km。太平洋の凪の中、快調に飛ばして行きます。

正午。
御蔵島が見えて参りました。
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往路とは異なり、着岸予定とのこと。
しかし、島は見るからに断崖絶壁です。
最大で500mくらいあろうか、ゴジラ5頭分。
写真の真ん中あたり、海へ直接注ぐ滝も見て取れます。

こんなところに港があるのかいな。
そう思っていたら、在りました。
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厚み10mはあろうかという、コンクリート製の堅固な護岸。
まるで要塞です。
断崖に楔のごとく打ち込まれた岸壁。
これに取り囲まれた港。
それが島唯一の港、御蔵島港です。

非常に狭い開口部。
打ち寄せる波。
なるほど、悪天候時には近寄れないはずです。
橘丸は港内に船首を入ると、バウ・スラスターを吹かせスムースに旋回運動。
最後にポッド推進器を一吹き。
120度回転。ピッタリと岸壁につけてきます。
超信地旋回と言っても良いくらいに、綺麗な機動でした。
12時25分、御蔵島港着。

早速、乗降が開始されます。
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ダンボールの中身は、高級ミネラルウォーター「御蔵島の源水」。
全国へ通販しているそうで、実際美味しい水です。

着岸と同時に、貨物の搬出・搬入も開始。
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離島らしく、港湾職員と共に警察官が埠頭に立ち、人や荷物の出入りをチェックしています。
「入り鉄砲に出女」ではありませんが関所ちっく、島の駐在さんというやつですね。
その人々が「警視庁」のベストを着ているのが何とも味わい深く思われました。
御蔵島港のトーチカの様な護岸を見ていても感じますが、離島の整備には、何よりお金が必要です。
そうであれば、経済力のある公共団体の傘下にあらねばならない。

そういう意味で、伊豆諸島が行政的に東京都であることは、島の生活のために必要不可欠なことなのです。
なにせ東京都の予算規模は、実に年間13兆円。
たとえ三宝港(青ヶ島)の整備に毎年7億円かかろうと、御蔵島港(御蔵島)の建設に120億円かかろうと。
致命的な負担とはなりません。
そう考えると、並みの国家を凌駕するメガロポリスの行政下にあるからこその、島の存続とも思われます。
人々の生活、文化の多様性を維持していく上で、重要なポイント「経済」。
旧国名にとらわれず、機能的な編入を果たした点で、近代政府は偉大でありました。

ところで、御蔵島港に積まれていたピラミッド状の砂はなんだったんだろう?
消波ブロック群の材料(セメント原料)かしらん。
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さて、御蔵島港を出港です。
就航率が低い冬場ということもあるのか、港側からの熱烈な手振り。
船からも大きく手を振って、島を離れます。

外洋に出ると、船は勢い良く転舵。
おもーかーじ!
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北北西へ20km。
前方に望む、三宅島を目指します。

三宅島雄山。
この火山活動度ランクAの活火山は、皆様の記憶にも新しいことでしょう。
平成12年(2000年)の大噴火。800mに渡る山頂の陥没。2,500年ぶりのカルデラ形成。
そして足掛け5年に及ぶことになる全島避難。
4,000人近かった島民は減少し、2,700人ばかりとなりました。
今も雄山は噴火を続けており、沈静化しているとはいえ、海からも噴煙が望めます。
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ガスマスクの携行義務が廃止されたのは、つい昨年のこと。

噴煙部を拡大。
こんな具合です。
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黒く染まった部分は溶岩流の爪痕。
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海に至るまで流れ出ています。
写真右の工場と対比すると、その規模がご理解いただけましょう。

そんな三宅島の錆ヶ浜港に13時25分、入港接岸。
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定刻通りの到着です。
黒潮の基本的な流路は三宅島・八丈島間といいますから、黒潮を乗り切ったことになります。

三宅島からは30人以上が乗船。
同時に御蔵島から乗船された方が1名、下船されて行きました。
乗客をみると、クーラーバッグに釣り竿ケースを持った方が多いこと多いこと。
大多数が釣り人の様です。

釣り民宿の方々でしょうか、盛大な見送りを受けつつ出港。
島影から御蔵島が望めました。
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この三宅島と御蔵島、また八丈島と青ヶ島。
この二つの両島関係は、たいへん興味深いものがあります。
それぞれの島が、後者が前者に物資や交通を依存する、宗主国と保護国の様な間柄に立っている(いた)のです。

三宅島と御蔵島の場合。
平成12年の三宅島噴火までは、東京から御蔵島へ直通する交通は存在せず、輸送も全て三宅島経由。
人口的にも4,000人の三宅村と300人少々の御蔵島村では規模が大きく異なり、経済面でも圧倒的格差がありました。
生殺与奪権を三宅島に握られた格好です。
状況が変わったのは、三宅島噴火以降。
三宅島の全島避難により失われた交通・物資の流路を回復させるため、御蔵島へ東京からの直行便が開通。
120億円をかけて御蔵島港が整備され、直接に本土から物資が届くようになりました。
その間、御蔵島は「巨樹と水の島」をキャッチフレーズに観光事業の振興に成功。
現在では、主産業たる観光で、三宅島をおびやかす存在にまでなっています。

一方、八丈島と青ヶ島の場合。
交通は船便「あおがしま丸」とヘリによる航空便「東京愛らんどシャトル」の二つです。
いずれも八丈島発着。東京からの直通便は現在も存在しません。
これは青ヶ島が八丈島と65km、東京からは360kmと結構な距離が離れていることに由来しています。
また青ヶ島界隈の海流は激しく、島の地理と相俟って、港の整備維持だけで年間7億円がかかるほど。
人口的には八丈町が8,000人に対し、青ヶ島村は170人(日本最小の地方自治体)。
もはや規模が違いすぎて、比べる術もありません。
産業的にも観光と公共事業が主である青ヶ島に対し、八丈島は多種多様。
これまた規模の差に寄るものでありますから、致し方ありません。
つまりは、青ヶ島は現在においても、八丈島に交通・物資の点で依存しています。

では両者の関係は、どうなのか。
八丈島・青ヶ島間は至って良好です。
むしろ、相互に宣伝を行い、助けあって行こうという様子。
八丈島が青ヶ島をPRし、青ヶ島が八丈島をPRしています。
八丈島観光協会が「あおがしま丸」の就航を盛大に祝う様なウィン・ウィンの関係です。
(鳥島の施政問題はありましたが、東京都の直轄に編入された以上、過ぎたことでしょう)

一方、三宅島・御蔵島の関係は微妙と言わざるを得ません。
相手への言及は大変少なく、あまり良好ではない様子。
御蔵島の公式パンフレットに至っては、三宅島からの「独立」について何度も言及し、「独立」に功労あった三人の人物を祀る神社を紹介する様相。
更に2000年の噴火についても、これにより直行便が成立した旨を記すのみで大変そっけない。
かなりギスギスしています。

この二つの関係は、何故かくも異なるのか。
船中の時間を利用して、調べてみました。
おそらく、これは江戸時代に遡る話が原因かと思われます。

江戸時代。
御蔵島は三宅島役人の支配を受け、青ヶ島は八丈島役人の支配を受けておりました。
ありていにいって、本国と属領の関係にあったのです。

御蔵島では古くから幕府の庇護の元、島の神職による自治支配が続いていましたが、17世紀後半になって転換。
幕府直轄領から外され、三宅島役人による官治支配を受けることになります。
神職や名主の裁量は狭くなり、いちいち島約人にお伺いを立てねばならぬ始末。
しかも島役人は御蔵島に辛く当たり、主産業たる「黄楊(つげ)の栽培」は壊滅の瀬戸際へ追いやられます。
結果、御蔵島島民は長らく飢餓に苦しむことになりました。
そんな中で島民は属領からの脱却を目指す様になり、神職家や流人の努力の甲斐あって18世紀中頃に直轄領へと復帰。
苦節の半世紀を経て、悲願の「独立」を達成します。

半世紀に及ぶ飢餓と収奪。
なるほど。恨み骨髄にもなるはずです。
その記憶は後代へも語り継がれ、そして今があるとすれば、ギスギスした関係も頷けましょう。

一方で、青ヶ島。こちらは長らく八丈島役人の官治支配の元、島の名主による運営が行われていました。
官治支配ではありましたが、名主の裁量は広かった様です。
二重カルデラに守られた青ヶ島の中心地、池之沢は自然の沃野。
日当り良好で植物の生育にも適しており「青ヶ島に飢餓なし」とうたわれる程でした。
しかし18世紀後半、状況が一変します。
青ヶ島火山が噴火したのです。青ヶ島の肥沃な大地は失われ、200人の島民は八丈島役人の助けを得て、全島避難に踏み切りました。
而来、半世紀。青ヶ島の島民たちは八丈島に仮寓し、時には自力で、時には八丈島の島民や役人の助力を得て、帰島を試みました。
19世紀中頃。ついに両島民の協力の成果もあって集団帰島が実現し、青ヶ島に人の灯火が戻りました。
これを「還住」と言います。詳しくは柳田國男「青ヶ島還住記」参照。

半世紀に及ぶ苦闘と協力の歴史。
これまたなるほど。現代に至るまでの友好が偲ばれるものです。
その記憶が後代へも受け継がれ、そして今があるとすれば、良好な関係も頷けます。

終局的には信頼関係のあるなしか。
近世における半世紀の記憶が、二つの依存・被依存関係の行先を明確に違えたのです。
その違いは、21世紀の現代にあっても厳然としたコントラストを描いて、私たちの眼前にあります。

・・・などと考えを巡らしていたら、眼前には三つの岩峰。
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無人島・大野原島です。
最高標高114m、その特異な形状から三本岳とも呼ばれています。
豊かな漁場があり、チャーター船で上陸する釣り人やダイビング客もいるとか。
優れたバイタリティと申せましょう。

そして船はゆく。

早島・新島通過。
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鵜渡根島・利島通過。
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そして伊豆大島通過
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先に三宅島の全島避難に触れましたが、かつて伊豆大島でも全島避難が行われました。
昭和61年(1986年)11月の三原山噴火。
山頂付近の噴火が一転、島内各所で地割れ噴火が同時多発的に発生し、たった1日で溶岩が流出を始めました。
流出した溶岩は島の集落方向へと流れはじめ、ついに全島避難が決定されます。
しかし、伊豆大島の島民数はなんと10,000人。
三宅島の3倍近い規模です。
迫り来る灼熱の溶岩流、港近くにまで現れた割れ目火口、水蒸気爆発の恐怖。
大島沖に集結した30隻の船、インフラを守る電力・交通従事者、役場の分析。
関係各員が努力に努力を重ねた結果、12時間で全島民が脱出に成功し、事なきを得ました。
優れた危機管理能力です。

沈静化に伴い、全島避難は1ヶ月で終了。
以後、伊豆大島三原山は火山活動度ランクAの活火山として警戒が続けられております。

伊豆大島を過ぎると船は浦賀水道へ。
遂に東京湾へと入っていきます。
右舷には房総半島。
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特徴的なピークは千葉の鋸山(日本寺)でしょうか。

水道航路内は12ノット制限ということで、橘丸は減速開始。
一方、水道から出てきた船舶は、気持ちよく増速を開始。
航海法にのっとり左舷方向ですれ違いです。
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タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦「シャイロー」と日本郵船が世界に誇る豪華客船「飛鳥Ⅱ」。
珍しいツーショットが見られました。

そして東京湾内。
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街の光に照らされた空は明るく、都市部が近いことを感じさせます。
戻ってきたのです。

19時35分。
東海汽船 橘丸は東京・竹芝客船ターミナルに入港。
総計20時間半を過ごした客船に別れを告げ、タラップを降り立ちました。
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力強い照明、都市の雑踏、慣れ親しんだ香り。
そして、次の旅がはじまる。

→See You, Next Voyage!
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by katukiemusubu | 2015-02-18 01:29 | 登山・トレッキング・温泉 | Comments(0)
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