「違憲」の二態様 -集団的自衛権をめぐる三つの立場-

よく誤解がある様なので、メモ程度に存念を書いておきます。




集団的自衛権。
これはざっくり言うと、
「A国とB国が密接な関係にある場合、どちらか一方に攻撃があった場合には、その攻撃してきた国または組織(C)に対し、共同して防衛行動を起こすことが出来る」という権利です。
ここで言う「密接な関係」(国連憲章第51条)は様々な意味を含みますが、現実に最も多いのは相互防衛条約による同盟関係です。

たとえばA国が弱い国だったとしても、強国B国と同盟を結ぶことで、自国への攻撃はB国への攻撃と同義のこととなり、A国はB国とともに防衛権を行使出来るのです。
攻撃する側にとっても、弱いと思ってA国を攻めて思ったら、B国といっしょになってタコ殴りしてくる事態に見舞われる訳で、たまったものではありません。
A国の同盟している国がB国のみならず、C国、D国もあるとすれば、実に四カ国からタコ殴り。
実例としては、四国艦隊下関砲撃事件が良い例でしょう。
アメリカ・フランス・オランダの三カ国の船を攻撃した長州藩が、三カ国にイギリスを加えた連合艦隊に攻め込まれ、滅多打ちにされ、莫大な賠償金*を課された事件です。

集団的自衛権は、攻撃しようという側にタコ殴りへの恐怖を与え、攻撃を思いとどまらせる効果を生みます。
まさに「恐怖による平和」。
よほどの狂犬でもない限り、恐怖を振り切って攻撃することは難しく、実に合理的なシステムと言えます。
半世紀にも及ぶ冷戦の間、一度たりとも熱戦(開戦)に及ぶことのなかったNATO(北大西洋条約機構)とWTO(ワルシャワ条約機構)はその典型と言えましょう。
バランス・オブ・パワー。ここでは集団的自衛権を結んだ二つの勢力が対立しましたが、双方の力が拮抗しており、理性が働く限り、戦争はそう簡単には起こらなくなりました。

ただし、同盟国が戦争を求める、あるいは「未必の故意(戦争が起こってしまえば、それでもよいなぁという気持ち)」で何らかの事件に臨んだ場合、他の同盟国も、同盟国の戦争に引きずり込まれ、宣戦布告の連鎖が生じる危険がございます。
バルカン半島の片隅でおこったセルビアとオーストリアの戦争が、全世界にまで波及してしまった第一次世界大戦などはその最悪の事態が生じたケースです。
東欧の一地域の紛争が集団的自衛権の行使に伴う宣戦布告の連鎖により、全世界にまで拡大してしまいました。
ですから、集団的自衛権を行うにしても、同盟相手は慎重に選ばねばなりません。

ところで、この集団的自衛権。
ちまたでは違憲だ合憲だと、憲法を媒介とした議論がよくなされています。

ここにいう「違憲」には二つの立ち位置があるのですが、どうにもこの二つが混同されて議論されることが多く、実に問題を複雑にさせています。
そこで二つの立場をはっきりさせましょう。

「違憲」一つ目の立場。
これは政治的価値観からの反対です。
すなわち平和憲法を有する我が国において、武力の行使はあくまで専守防衛(自国が攻められた場合にのみ防衛戦争を行うこと)に基いて行われなければならないという立場です。
自衛権の行使は個別的なものに限られます(個別的自衛権)。
これを言い換えれば、日本が戦争を起こす立場になってはならないばかりか、日本が他国の戦争に巻き込まれる事も、いかなる場合であれ、あってはならないという立場です。
平和主義、大いに結構。そういう価値観もあって然るべきでしょう。

ところで「違憲」二つ目の立場。
これが事態を複雑化させている要因です。
正確には、二つ目の立場の存在が、ではなく、二つ目の立場への無理解が、ですが。

これはどういう立場かと申しますと、「政治的価値観はどうであれ、現行憲法の法理論上、集団的自衛権は認められない」という立場です。
平和という価値観を訴求するかどうかは、はっきり言ってしまえばどちらでも良く、
純粋に理論的に「集団的自衛権を認めることは現在の法制度では難しい」という立場です。

具体的に申しましょう。
政府(安倍首相および内閣法制局)は集団的自衛権を認めるに際し、「憲法解釈の変更」を行いました。
しかし、集団的自衛権を認めることは現行憲法の解釈をどれだけ広げようとも認められず、
「もし認めるとするのならば、憲法改正(改憲)を行わなければならない」と考える立場が二つ目の立場です。

国会審議(憲法審査会)では与党参考人の早稲田大学・長谷部恭男教授(前・東京大学教授)が「憲法違反」の意見を表明して物議を醸しましたが、長谷部教授の立場が、まさにこの「二つ目の立場」に当ります。
ここで重要なのは、ここにいう「違憲」が、一つ目の立場とは異なり、本人が集団的自衛権を支持するか否かという価値観の問題に関わりなく「法学的・法理論的に違憲といわざるを得ない」という点にあります。
つまりは理論上、当然の帰結というわけです。

現実に現行の日本国憲法を読んでみましょう。
第9条1項をみますと「国権の発動たる戦争と・・・武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書いてあるのであり、
国際紛争を解決する手段ではない戦争、すなわち自衛戦争(及びその戦力たる自衛隊の存在)は認められるにしても、
他国と同盟を組んで、自国のみならず他国への攻撃までも「自国への攻撃」だと考えて、共同して武力行使を行う
(要は自国が攻められてもいないのに他国に武力を行使する)「集団的自衛権」は明らかに国際紛争(国と国との諍い)の解決に武力を行使するものであって明文に反しています。
つまり、文言をどれだけ広く解釈しても、条文の意味を斟酌しても、つまりは字義解釈・意義解釈のどちらによっても「憲法に反している」と言わざるを得ないことになります。

二つ目の立場の人々は、純粋に法理論(日本という法治国家のルール)に基いて「無理」と言っているのみですので、価値観・考え方としては「集団的自衛権を導入すべき」だという人もいれば、「集団的自衛権は導入すべきでない」という人もいます。
政治的価値観のどちらも内包しつつ、しかしその考え方から離れた、ニュートラルな(価値観中立の)立ち位置なのです。

ですから、「集団的自衛権の導入を考えるべきだ」という価値観を持った二つ目の立場の人からすれば、
「現政権の導入手段(解釈変更による集団的自衛権の導入)は違憲であり、これを解消するためには、集団的自衛権の行使・導入は憲法改正によって行なわれるべきだ」ということになります。
一見アンビバレンツにも見えますが、理論的には筋が通っています。

しかし世の中には「価値観以外の判断基準はない」と考える方もいるもので、
そんな左派の方々からは後半の「憲法改正」の言葉をもって「右翼め!」とこき下ろされ、そんな右派の方々からは前半の「違憲」の言葉をもって「左翼め!」と貶されることになります。
価値観が多様であるのと同様、判断基準にも多様性があることがなぜ分からないのでしょうか。不思議という他はありません。

これは想像ですが、長谷部教授はまさに「集団的自衛権の導入を考える二つ目の立場の人」であったのではないでしょうか。
それが「集団的自衛権の導入に無条件で賛成」と勘違いされ、政府参考人に祭り上げられた。
しかし本人は無条件で賛成というわけではないので「現在の憲法から言えば違憲だが・・・」と述べたところ、物議をかもした。
こんな経緯を想像します。

ところで「違憲」の二つの立場について述べてきましたが、「それならば合憲にも二つの立場があるのではないか」という考えもございましょう。
すなわち、政治価値観として集団的自衛権を望むという立場と、法理論として現行憲法でも集団的自衛権が認められるという立場です。
当然、二つの立場が成り立ち得ます。

しかし現実には、価値観としての立場はともかく、法理論として現行法上、集団的自衛権を肯定するという立ち位置はほぼ(少なくとも学会上は)存在しない立場※であり、
従って、現実に存在している集団的自衛権への立場としては、
1.政治的価値観として賛成、2.政治的価値観として反対、3.政治的価値観としてではなく法理論上反対(違憲)、という三つの立場に整理されます。

ここでは賛成、反対、違憲と整理しておりますが、
言葉の正確な意味での「違憲」を言っているのは3の立場(法理論)のみであり、
政治的価値観による合憲・違憲の意見は賛成・反対の意見とほぼ同義(置き換え可能)であるため、この様な整理といたしました。

一口に「違憲」と言っても二つの立場。
「違憲」の意見を耳にした際は、ぜひその人がどちらの意味で「違憲」「反対」と言っているのか、確認してみて下さい。
より議論も深まりましょう。

※なお「法理論上賛成」と主張する人が唯一と言って良いレベルで存在しているのが、内閣法制局です。
  いくら「法の番人」とは言っても、彼らはその時々の政権に人事権を握られたサラリーマンであり、勤め人の悲哀を感じるところではあります。


*:賠償金は300万ドルという凄まじい額。
ちなみに講和して賠償金を支払う旨を受け入れたのは長州藩・毛利家ですが、現実に支払ったのは江戸幕府でした。
幕府は監督責任を問われた訳です。自分のやった事ながら、上手く責任を回避する立ち回り。交渉人・高杉晋作の巧みさに舌を巻きます。

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by katukiemusubu | 2015-09-07 20:28 | 法律系 | Comments(0)
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